小判とは?
概要や種類を紹介
小判(こばん)は、天正(1573年~1592年)から、江戸時代にかけて日本で使用されていた通貨です。小判は、延金貨幣といって、熱した金属を槌で叩いて薄く延ばして作られました。さまざまな小判が発行されましたが、発行された時期により、小判の価値は大きく異なることをご存知でしょうか。ここでは、小判の概要や価値を調べる方法、主な種類などについて紹介します。
小判の概要
小判は、別名「小判金」とも呼ばれたもので、江戸時代に流通した金貨の一つです。古金銀の一種で、古銭のなかでも有名なものといえるでしょう。当時の金貨には大判もありましたが、これは、恩賞や褒章を目的として作られた特別なものです。すでに戦国時代から大判は出てきていたものの、大きさや重さの観点から、日常の取引用として扱うには無理があったのです。そこで、大判に代わり、流通用の金貨として製造されたのが、小判です。江戸時代初の小判は天下を統一した徳川家康によって作られ、江戸の町に流通するようになりました。 流通量を確保するためには、なるべく製造工程をシンプルにする必要があります。当時、大判は、金属を伸ばして形を作ったあとに、後藤家で手書きの墨書きをして作られていました。一方、小判では、手書きに代わって箔押しのような手法を取っています。この手法は極印といって、品位および量目により、小判の価値を表す印を決めていました。
小判の価値を調べる方法
小判は、古銭の中でも価値が高いものとして知られています。しかし、小判にはいくつもの種類があり、発行のタイミングによって、価値は左右されます。小判や当時の江戸の歴史などについて幅広い知識をもち、査定の経験が豊富な人でないと、正しい小判の価値を判断できません。なお、市場には精巧なレプリカも出回っているので、一般の人では、偽物を見抜くことは難しいでしょう。 小判の価値を調べるには、専門の鑑定士がいる買取業者に依頼することをおすすめします。買取を依頼する際は、小判を洗ったり、磨いたりしないように注意しましょう。きれいな光沢のある小判の方が見栄えがよいと感じる人もいるかもしれませんが、自分で処理をすると、かえって小判の状態を損ねる可能性があります。何もしないで、そのままの状態で査定に出しましょう。
小判の買取りおすすめ業者の紹介
バイセル
バイセルは、2018年7月まで「スピード買取.jp」という社名でした。「バイセル」に社名を変更してからも以前の名の通り、対応の早さが特徴の買取業者です。即日の出張依頼にも対応してくれます。もともとは着物を中心に買取を行っていましたが、2020年1月現在では古銭や切手などの買取にも力を入れており、記念硬貨など古銭の買取実績も豊富です。
また、バイセルはメディアでの宣伝を積極的に行っているところも特徴です。イメージキャラクターに坂上忍を起用しており、テレビ・ラジオCMやチラシなどで一度は広告を目にしたことがあるのではないでしょうか。メディア宣伝によりバイセルの知名度はどんどん高くなっており、お問い合わせ件数も年々増加するなど、勢いのある買取業者です。
小判の主な種類と特徴
小判の主な種類と特徴を紹介します。
駿河墨書小判
江戸時代以前にも小判は作られていました。その一つが、駿河墨書小判(するがすみがきこばんまたは、するがぼくしょこばん)です。駿河墨書小判は日本で最古の小判とされていますが、いつ発行されたのか、誰が鋳造を命じたのかは定かではありません。一説には、文禄4年 (1595年)に発行されたと言われており、発行を命じたのは、徳川家康か、あるいは豊臣秀吉の家臣である中村一氏ではないかと推測されています。
駿河墨書小判の大きな特徴は、楕円形の形です。肩がなく丸い形状は、一般的に知られている小判の形より、大判の形に近いといえるでしょう。なお、この小判は、いまだに数えるほどしか発見されておりません。そのため、希少性が評価され、コレクターの間では非常に価値が高いものとして知られています。
武蔵墨書小判
武蔵墨書小判(むさしすみがきこばんまたは、むさしぼくしょこばん)も江戸時代より前に作られたもので、駿河墨書小判と同様、徳川家康が作らせた日本で最古の小判とされています。小判が作られたのは安土桃山時代の文禄4年(1595年)、形状は駿河墨書小判と同じく楕円形のものもあれば、多くの人がイメージする細長い形状のものもあります。
特徴的なのは、表面に大きく描かれた「武蔵壹两光次」の花押。花押とは、確かに自分で書いたものであることがわかるような、署名をデザイン化したものです。現代でいう著名人のサインのような役割を持つといえるでしょう。
なお、武蔵墨書小判は鋳造枚数が少なく、改鋳されたものもあります。改鋳とは、もともと流通していた貨幣を鋳直して、新たな貨幣を生み出す技術です。改鋳が行われた背景には、貨幣に質を落とし、余剰分を使い経済回復を狙うという目的がありました。たとえば、武蔵墨書小判のなかには、江戸時代初の小判である、慶長小判に改鋳されたものもあります。
慶長小判
慶長小判(けいちょうこばん)は、関ケ原の戦いの翌年である慶長6年(1601年)に発行された江戸時代初期の小判です。当時は、慶長一分判も同時に発行され、慶長小判と合わせて慶長金(けいちょうきん)、慶長銀とともに慶長金銀(けいちょうきんぎん)と呼ばれました。
慶長金銀は徳川家康が天下を統一したことを記念する、江戸幕府による初期の貨幣です。慶長小判は金86.28%、銀13.20%の比率で作られており、金の比率が高いことから、江戸時代当初の景気の良さがうかがえます。小判は、いくつか極印は押されているものの、全体的にシンプルな作りをしています。
元禄小判
元禄小判(げんろくこばん)は、慶長小判の次に作られた額面が一両の小判です。1657年に明暦の大火という大火事が江戸で発生しました。その結果、慶長小判を含む多くの通貨は溶けてしまいます。そこで、新しい通貨の一つとして発行されたのが元禄小判で、元禄8年9月10日(1695年10月17日)から通用が始まりました。
また、元禄小判と同時期に発行された金貨に、元禄一分判と元禄二朱判があります。これらは元禄金(げんろくきん)または元字金と呼ばれました。また、同時に吹替えが行われた元禄銀と合わせ、元禄金銀とも呼ばれています。
元禄小判は金56.41%、銀43.19%と金の量が少ないという特徴があります。慶長小判と比較すると、大幅に金の量が少ないことがわかるでしょう。元禄小判は粗悪な小判としてぞんざいに扱われ、改鋳されたものは少なくありません。そのため、現在まで残っている元禄小判は、ごくわずかであるとされています。
宝永小判
宝永小判(ほうえいこばん)は、宝永7年4月15日(1710年5月13日)に通用が始まった、額面が一両の小判です。宝永小判は、「乾」の極印が押されていたことから、別名、乾字小判(けんじこばん)といわれました。
なお、宝永小判と同時期に発行された金貨には、宝永一分判もあり、これらはまとめて、宝永金、または乾字金とも呼ばれました。この小判は多く流通したことでも知られており、宝永小判と宝永一分判を合わせて、1151万5500両も発行されています。
宝永小判は、金83.40%、銀16.55%です。かつて発行されていた元禄小判と比較すると、金の量が多いことがわかるでしょう。実は、金の含有量が増えたのは、小判のサイズを小さくしたためです。流通量と慶長小判同等の品位を両立すべく、当時の幕府は小判の寸法を見直したのです。
正徳小判
正徳小判(しょうとくこばん)は、正徳4年5月15日(1714年6月26日)より通用が始まった、額面が一両の小判です。正徳小判と同時期に発行された金貨である正徳一分判とまとめて、正徳金(しょうとくきん)と言われました。
また、同時期に吹替えされた銀貨には正徳銀があり、これと合わせて正徳金銀とも呼ばれました。正徳小判の発行数は、21万3500両で、素材は金85.69%、銀14.25%です。品位は武蔵墨書小判に近いとされています。そのため、正徳小判は、別名武蔵小判(むさしこばん)とも呼ばれました。
享保小判
享保小判(きょうほうこばん)は、正徳4年8月2日(1714年9月10日)より通用が始まった、額面が一両の字小判です。同時期に発行された享保一分判と合わせ、享保金と称されます。前回の正徳小判からわずか4カ月という早さで発行されたのは、正徳小判の評判の悪さが原因でした。正徳小判は慶長小判と比べて品位が劣るとの噂が広まったことを受け、金の品位を上げて発行されたのが享保小判です。
実際、素材は金86.14%、銀13.55%であり、わずかながら正徳小判よりも金の含有量が多いといえるでしょう。なお、享保小判は本格的に吹替えがなされたわけれはないので、見た目は正徳小判とほぼ変わりません。しかし、極印の「光次」の一部が離れていることに注目してみましょう。光という字の最後のハネの部分と、次という字の四画目がやや離れているところが、享保小判ならではの特徴です。
元文小判
元文小判(げんぶんこばん)は、元文元年5月16日(1736年6月24日)から鋳造が始まり、同年6月15日(1736年7月23日)より通用された額面一両の小判です。別名、文字小判(ぶんじこばん)とも呼ばれたのは、「文」の極印が使われていることに由来しています。
なお、のちの時代にも、文政小判という「文」の字がつく小判が発行されています。区別をつけるため、元文小判は「真文小判」や「古文字小判」とも呼ばれました。江戸時代に入ってから、6番目に通用されたこの小判ですが、金の含有量が大幅に減っていることに注目しましょう。
金65.31%、銀34.41%と、かつて発行されていた慶長小判などと比べると、その差は歴然です。金の含有量を減らした背景には、当時の武士や農民を救うという目的がありました。幕府は、小判の品位を下げて発行数を増やし、財政改善を画策したのです。
文政小判
文政小判(ぶんせいこばん)は、文政2年7月18日(1819年9月7日)から鋳造が始まり、同年9月20日(1819年11月7日)より通用が始まった額面が一両の小判です。元文小判と区別するべく、新文字小判(しんぶんじこばん)または、草文小判(そうぶんこばん)とも呼ばれます。小判の品位に注目してみましょう。かつて不況にあえぐ人々を救うべく、品位を落とした元文小判が発行されました。
しかし、文政小判の品位は、元文小判よりもさらに劣ります。素材構成は金56.05%、銀43.58%であり、ほぼ半分が銀であることがわかるでしょう。確かに、大量に発行された元文小判により、一時江戸の経済は持ち直しました。しかし、幕府は蝦夷地直轄政策などにより再び財政難に陥ってしまったのです。なお、この小判以降も幕府の財政難は続き、小判の品位が回復することはありませんでした。
天保小判
天保小判(てんぽうこばん)は、天保8年7月21日(1837年8月21日)から鋳造が始まり、同年11月15日(1837年12月12日)より通用が始まった額面が一両の小判です。「保」の字が刻まれていることから別名、保字小判(ほうじこばん)とも呼ばれました。江戸時代に入って8番目に発行されたこの小判は、金56.77%、銀42.86%となっており、わずかではありますが、金の量が増えています。
なお、小判を作る過程において、新しい技術が登場していることにも注目してみましょう。金属を熱して伸ばす延金段階で、ローラーが用いられるようになったのです。手作業から機械作業にシフトしたことから均一性と平坦性が向上しました。また、色揚げ技術も進歩しています。こういった技術により、天保小判は、同じような品位の小判と比較し、美しい見た目が評価されています。
安政小判
安政小判(あんせいこばん)は、安政6年5月25日(1859年6月25日)から鋳造が始まり、同年6月1日(1859年6月30日)より通用が始まった額面が一両の小判です。「正」の字が刻まれていることから別名、正字小判(せいじこばん)とも呼ばれました。江戸時代に入って9番目に発行されたこの小判は、金56.77%、銀43.23%となっており、天保小判とほぼ同じ品位であることがわかるでしょう。しかし、小判のサイズ自体は小ぶりであるため、小判1枚に含まれる金の量は、他の小判と比べて少なめです。
小判が小ぶりになった背景には、1854年に日米和親条約が締結されたことを受け、海外に金が流出するのを防ぐという目的がありました。なお、この小判が発行された期間は、わずか3カ月程度です。そのため、現存する枚数が少なく、大変貴重なものとされています。
万延小判
万延小判(まんえんこばん)は、万延元年4月9日(1860年5月29日)から鋳造が始まり、翌4月10日(1860年5月30日)より通用が始まった額面が一両の小判です。江戸時代の終盤に発行されたこの小判は、別名、新小判(しんこばん)または、雛小判(ひなこばん)とも呼ばれました。なお、品位は金57.25%、銀42.35%となっています。
万延小判は量目が低い、つまり重さが軽いことで知られています。かつて発行された慶長小判の1枚の重さが17g程度であったのに対し、万延小判1枚の重さは、はわずか3g程度しかありません。また、重さばかりでなく、サイズも小ぶりです。かつて江戸で発行されてきた小判と並べると、大きさの違いを明確に見て取れるでしょう。
なお、万延小判の鋳造は慶応3年8月6日(1867年9月3日)をもって終了し、これ以降は、小判は作られていません。さらに、明治7年(1874年)の古金銀通用停止をもって、万延小判を含むあらゆる古金銀の利用は廃止されました。