天正大判の特徴と価値を解説!オススメの買取業者情報を発信中

天正大判の価値は?
主な種類や特徴を紹介!

天正大判は、安土桃山時代から江戸時代の初期に掛けて鋳造された古銭です。最初の天正大判は天正16年(1588年)に作られたとされています。

豊臣家が金細工師の後藤四郎兵衛家に命じて鋳造させたという背景があり、歴史的価値が非常に高い古銭です。さらに現存枚数も限られているため、買取を依頼した場合は高額査定が期待できるでしょう。

この記事では、そんな天正大判の種類や特徴などについて詳しく紹介します。

天正大判の概要

天正大判には、天正菱大判(てんしょうひしおおばん)・天正長大判(てんしょうながおおばん)・大仏大判(だいぶつおおばん)など、いくつかの種類があります。先述したとおり、すべて豊臣家の指示で鋳造された大判です。槌を打ってつけた、槌目(つちめ)と呼ばれる印が表面にあるところが特徴です。 天正大判は江戸時代初期まで鋳造されており、その後は徳川家の指示のもと慶長大判が作られました。しかし、慶長大判が流通するようになっても、元禄8年(1695年)までは天正大判も並行して使用されていたといわれています。 種類によって鋳造された年や発行枚数は異なりますが、どれも400年以上昔の古銭であり、もし持っていたらかなりの価値があるといえるでしょう。

天正大判の種類と特徴

天正大判は非常に価値が高い古銭ですが、種類によって発行に至るまでの歴史や特徴などが異なり、希少性にも差が見られます。そこでここからは、大仏大判・天正菱大判・天正長大判の3種類を取り上げ、それぞれの特徴を紹介します。

大仏大判

大仏大判は、慶長13年(1608年)から鋳造された金の大判です。鋳造時期は江戸時代初期にあたり、慶長大判の鋳造時期と重複していますが、豊臣家の指示で作られたため、天正大判の一種として数えられています。

また、この「大仏大判」という呼び名は、この大判が京都東山の方広寺大仏殿を再建する費用にあてるために豊臣秀頼が鋳造したことからつきました。しかし、豊臣秀頼に方広寺大仏殿の再建をすすめたのは徳川家康で、その本来の目的は秀頼の蓄財を消費させることだったといわれています。

さらに、この大判を鋳造して大仏殿を再建した結果、有名な「鐘銘事件」が引き起こされました。鐘銘事件とは、大仏殿の再建に際して鋳造された鐘の文言に家康が難癖をつけた事件です。これをきっかけに大坂冬の陣が起こったといわれており、豊臣家は苦境に立たされることになりました。

天正菱大判金

天正菱大判は、安土桃山時代の半ばにあたる、天正16年(1588年)から作られた大判金です。鋳造を命じたのは豊臣秀吉で、豊臣家の指示によって鋳造された初めての大判でもあります。特別な祝い事などの際に、家臣へ贈るために作られたといわれています。菱形枠の桐極印が打たれているのが特徴で、呼び名の由来もその印です。

天正菱大判の発行枚数は約4万枚ですが、現存が確認されているのは世界中でたった6枚だけです。そのため、天正大判の中で最も希少であることはもちろん、日本の古銭の中でも最も価値が高いといわれています。

発見された6枚のうち5枚は博物館に収蔵されていますが、残りの1枚は2015年にスイスで行われたオークションに出品され、約1億2000万円で落札されました。国内では東京国立博物館や日本銀行紙幣博物館、大坂の造幣博物館に展示されているので、気になる人は見に行ってみてはいかがでしょうか。

天正長大判金

最後に紹介する天正長大判は、安土桃山時代の後期にあたる文禄4年(1595年)から作られた大判金です。天正菱大判と同様、豊臣秀吉の指示で鋳造されました。

天正長大判の特徴はその大きさです。先に紹介した2種類と同じ長円形ではありますが、この天正長大判はそれらに比べて縦長の形をしていて、縦の長さは約17センチもあります。これは女性の手のひらとほぼ同じ大きさです。このように、通常の大判よりも大きいことから「長大判」と呼ばれています。

また、これだけ大きな金貨は世界的にも珍しく、世界最大の金貨ともいわれています。見栄えも良いので、一説には豊臣秀吉が聚楽第で金賦りをした際に用いられたといわれるほどです。ただし、サイズは大きいですが、金の品位や質量はほかの2種類の天正大判と同じです。それでも価値は非常に高く、鑑定すれば数千万の値がつくともいわれています。