【お得に処分】激レアな地方貨幣の特徴や相場をまとめてご紹介

地方貨幣の価値は?
主な種類や特徴を紹介!

地方貨幣とは、戦国時代から江戸時代初期にかけて、それぞれの藩でのみ使うことができた貨幣の総称です。徳川幕府により通貨が統一されるまでの約150年間使われていたもので、様々なものがあります。

地方貨幣には金や銀で鋳造されたものもあり、そのようなものは領国貨幣と呼ばれ珍重されることが少なくありません。作られた時代や場所がはっきりしているものも多く、古銭としての価値も高いといえます。

コレクターからも人気があるので、状態の良いものは高額での買取も期待できるでしょう。この記事では人気の高い地方貨幣についての種類や特徴などについて紹介します。

地方貨幣の概要

地方貨幣(ちほうかへい)は、戦国時代から江戸時代の初期にかけて、各藩が自国の領内で流通させていた独自貨幣の総称です。藩によって鋳造に用いた素材に違いがあり、大きさや流通量にも差がありました。 地方貨幣が流通していた期間は、貨幣政策によって徳川幕府が鋳造した貨幣のみ流通するようなるまでの約150年間です。藩によって、鋳造技術にも差があったため、物によって希少性や取引価格も大きく違います。 数ある地方貨幣の中でも、特に価値が高いとされているのは、金や銀で鋳造されたものです。それは、領国貨幣(りょうごくかへい)と呼ばれ、それ以外の素材で作られた地方貨幣と区別されています。 豊臣秀吉が鋳造させた天正長大判は人気の高い領国貨幣の1つです。歴史の教科書にも掲載されるほど有名な貨幣なので、写真を目にしたことがあるという人もいるのではないでしょうか。保存状態のよい天正長大判は、家が買えるほどの高値で取引されることもあります。

地方貨幣の主な種類や特徴

地方貨幣は、各藩で作られていたのでさまざまなものがあります。一口に地方貨幣といっても、古銭として評価や人気に差があるので、どのようなものが高値で取引されるのかを知っておきましょう。 ここでは、地方貨幣の主な種類や特徴について紹介します。

盛岡銅山(もりおかどうざん)

盛岡銅山は、盛岡藩で鋳造され、領国内でのみ通用していた地方貨幣です。江戸時代の慶応2年(1866年)に鋳造されました。素材に銅が用いられている小判型の穴銭です。小判の中央に四角い穴があけられており、表には「盛岡銅山」、裏には「百文通用」の4文字が刻まれています。

盛岡銅山の鋳造は、密鋳でした。そのためもともと鋳造数自体が少なく、良い状態で現存している数も多くありません。希少価値が高い地方貨幣ということもあり、コレクターからの人気も高い古銭です。

価値が非常に高いので、価値を正しく見極めてもらえる業者に買い取ってもらうことが大事です。真贋や保存状態をしっかり見極め、正しく査定してくれる業者を選べば、高額買取も期待できます。

細倉当百(ほそくらとうひゃく)

細倉等百は、江戸時代の文久3年(1863年)に鋳造された地方貨幣です。仙台藩の細倉鉱山でのみ通用した貨幣で、素材に細倉鉱山で採掘された鉛が用いられています。1辺が約6センチメートルの正方形で、重さは約180グラムです。

大型の貨幣で、表には細倉當百の四文字、裏には奥州藤原氏の三代目当主、藤原秀衡の花押を模した「秀」の文字が刻まれています。栄華を極めた奥州藤原氏にあやかりたいという思いが込められた刻印です。

細倉当百は細倉鉱山で産出された鉛をそのまま使って鋳造されたものなので、刻印がきれいに残っているものが少ないという特徴があります。そのため、刻印がはっきりしているものは貴重です。鉱山で働く人々への賃金が細倉当百で支払われたため、地域によっては良い状態で残されているものが見つかるかもしれません。

金円世宝(きんえんよほう)

金円世宝は、室町時代の文永2年(1470年)に琉球で鋳造された地方貨幣です。琉球王国では尚円王時代にあたります。鋳造の目的は、日明貿易で用いられた永楽通宝の不足分を補うためでした。

素材は銅で、直径25ミリの円形、重さは約4グラム、中央には四角い穴が開いている穴銭です。表には「金円世寶」の四文字が刻印されていますが、裏には刻印がありません。

琉球の地方貨幣には「大世通宝」や「世高通宝」があり、ともに「琉球三世銭」と呼ばれています。金円世宝は、鋳造目的がほかの貨幣の不足分を補うためだったので、鋳造枚数自体が多くありません。

通貨不足の際には、明銭がそのまま用いられることもあったといわれています。流通していたのは琉球王朝が最も栄えていた時代で、薩摩に領地を狙われるような動乱もありました。希少価値が高く、コレクターからの人気が高い古銭の1つです。

筑前通宝(ちくぜんつうほう)

筑前通宝は、江戸時代の文久3年(1863年)に、福岡藩で鋳造された地方貨幣です。天保通宝によく似た小判型で、中央には四角い穴が開いています。いびつな四角い穴が開いている穴銭が多い中、きれいな正方形の穴が開いている点が特徴です。福岡藩の鋳造技術が高かったことがうかがえます

当時、江戸幕府からは地方銭の発行が認められていなかったので、幕府には内緒で作られた地方貨幣です。そのため、試鋳銭のみの鋳造となり、鋳造数そのものが多くありません。

素材は銅で現存数が少ないので、とても貴重な古銭だといえます。希少性があり、人気もある古銭なので、レプリカも多く作られました。鑑定が難しい、精巧に作られたレプリカも存在するため、買取に出す場合も、購入する場合も注意が必要です。買取を依頼するなら、正確な鑑定ができる専門の買取業者を選んで、買い取ってもらうようにするとよいでしょう。

琉球通寶(りゅうきゅうつうほう)

琉球通寶は、江戸時代の文久2年(1862年)に薩摩藩で鋳造された地方貨幣です。琉球という名前がついていますが、江戸幕府の認可を得た薩摩藩が鋳造しました。素材は銅で、30万両ほど作られたといわれています。薩摩藩は、薩英戦争後も琉球通寶を鋳造し続けたため、地方貨幣の中でも鋳造枚数が多いものの1つです。

琉球通寶には、形が異なる2つの種類があります。1つは天保通宝と形がよく似ている小判型の「當百」、もう1つは円形の「半朱」です。鋳造時期によって、書体が変化しており、銅合金の色も変化しています。

銅合金の色や書体が異なる種類が豊富な地方貨幣なので、物によって人気も買取価格も差があるのが特徴です。鋳造時期によって変化している貨幣は、価値を判断するのが難しいため、古銭の買取を専門に行っている、きちんと査定してくれる業者を選んで取引する必要があるでしょう。

秋田波銭(あきたなみせん)

秋田波銭は、江戸時代の文久2年(1862年)に秋田県の阿仁鉱山で鋳造された地方貨幣です。鋳造目的は、阿仁鉱山で働く労働者が使用するためでした。素材は、阿仁鉱山で採掘される銅を用いています。

中央に穴が開いている穴銭が多い地方貨幣には珍しい、穴の開いていない貨幣です。外周を飾る縁も作られていないので、ほかの貨幣とは見た目がかなり違います。表面には、青海波の波模様が描かれていますが、裏面には刻印がありません。波模様が特徴的なので、波銅とも呼ばれています。

秋田波銭は、鋳造に使われた銅の中に少量の鉛が混じっているため、赤銅色が美しい貨幣です。ほかの地方貨幣との違いが目立つため、独特の見た目に魅了される人も多いようです。高額での買取が期待できる古銭なので、適正な査定をしてくれる業者を選んで買い取ってもらうようにしましょう。

秋田鍔銭(あきたつばせん)

秋田鍔銭は、江戸時代の文久3年(1863年)、久保田藩で鋳造された地方貨幣です。素材は銅で、刀の鍔のような形をしているため鍔銭と呼ばれています。久保田藩主・佐竹氏が所有する刀の鍔をモデルにしたため、このような形になったといわれていますが、形の異なるバージョン違いがいくつもあるので、真偽は定かでありません。

撫丸肩方形で中央には縦長の長方形の穴が開いているという珍しいデザインです。表面には、雌雄の鳳凰、裏面には八卦が刻印さえています。裏面に八卦模様があることから、八卦銭と呼ばれる古銭です。

表面に描かれている鳳凰の尾の長さが異なるバージョン違いが数種類あり、古銭としての価値も異なります。尾が長いものと短いものはそれなりの流通量がありますが、尾の長さが中ぐらいのものは鋳造数が少なく貴重です。

それ以外にも、百足、鑢目仕上げの肥紋タイプなど、さらに珍しいものもあります。価値の見極めが難しいので、取引の際には、正確に価値を判別してもらえる買い取り業者を選ぶことが大事です。

箱館通寶(はこだてつうほう) 

函館通寶は、江戸時代の安静3年(1856年)に函館で鋳造された地方貨幣です。鉄製の銭貨ですが、銅も含まれています。日本の開国に伴い、函館港での貿易の利便性を図るために、函館でのみ使える地方貨幣として作られました。

当時日本で多く用いられていた中央の穴が四角い穴銭とは異なり、円形の穴が開いているのが特徴です。円形の穴が開いた貨幣を鋳造する前に、中央の穴が八角形の試鋳銭が作られており、とくに希少価値が高いとされています。

比較的安値で取引されている地方貨幣ですが、表面に緑青や錆がついて、刻印がはっきりしなくなっているものも多いため、状態の良いものは高額で買い取ってもらえるかもしれません。

微妙な書体の違いや状態の差で取引価格が変わるので、価値を正しく判断するために、専門の買取業者に依頼するのがおすすめです。

仙臺通寳(せんだいつうほう)

仙臺通寳は、天明4年(1784年)に仙台藩で鋳造された地方貨幣です。仙台藩内で盛んに産出されていた鉄が素材として使用されています。丸みを帯びた四角形の貨幣で、中央の四角い穴の大きさが大きいのが特徴です。鋳造していくうちに徐々に大きさが小さくなっていったので、大きいものは23ミリ以上あるのに対して、小さいものは20ミリ程度の大きさしかありません。

流通量が多いため、現在でもたくさん発見されています。希少価値は乏しい地方貨幣ですが、海外でも人気があるので、需要はそれなりにある貨幣です。

保存状態次第では高値で取引されることもあります。錆が少なく、刻印がはっきりしているものは、正確に査定をしてくれる古銭を専門に買い取る業者に判断してもらうと安心です。

世高通宝(せこうつうほう)

世高通宝は、室町時代の寛正元年(1461年)尚徳王時代の琉球王国で鋳造された地方貨幣です。直径23ミリの円形で重さは約3グラム、素材は銅で作られています。永楽通宝を模して造られていますが、琉球王国が独自に鋳造している銅銭です。

銭銘は尚徳王の神号である世高王から取られたものだといわれています。首里城の発掘現場からも発見され、出土品の年代推定にも用いられている貨幣です。

「大世通宝」と「金円世宝」とともに「琉球三世銭」と呼ばれます。表面には世高通寶の4文字が刻まれていますが、裏面は無紋です。希少性はそれほど高くありませんが、状態の良いものは高値で買い取ってもらえる可能性があります。正しく価値を判断してもらえる業者を選んで取引することが大事です。

琉球通宝 半朱(りゅうきゅうつうほう はんじゅ)

琉球通宝半朱は、江戸時代の文久3年(1863年)、薩摩藩によって鋳造された地方貨幣です。琉球という名前がついていますが、琉球で鋳造されたものではありません。琉球通宝には、半朱のほかに當百があり、形が異なります。當百は小判型をしていますが、半朱は円形で、中央に四角い穴が開いている穴銭です。

素材には銅が使われており、重さは約31グラムあります。琉球通宝のうち半朱は、薩摩藩が琉球の救済を目的に鋳造したものです。琉球通宝半朱は、32枚で1両として通用していました。

表面、裏面とも刻印には篆書体が用いられているのが特徴です。表面には「琉球通寶」裏面には「半朱」の文字が刻まれています。

貨幣の側面にも刻印があり、刻まれている文字は薩摩藩で鋳造されたことを示す「サ」の文字です。琉球通宝は、半朱か當百かによって価値が異なります。正しく査定してもらうようにしましょう。

大世通宝(たいせつうほう)

大世通宝は、室町時代の享徳3年(1454年)頃に琉球で作られました。琉球王国の国王である尚泰久が発行した琉球独自の銅銭で、それまで琉球で発行されていた子園よりも、若干サイズが大きめです。大世通宝の銭銘は、尚泰久の神号である「大世主」からとられたものです。

日明貿易で用いていた永楽通宝をもとに鋳型を作成したため、「大世」と「通寶」の書体にわずかな違いが見られます。「金円世宝」「世高通宝」と合わせて「琉球三世銭」と呼ばれるので、3種類揃えたいという需要もあり、コレクター人気の高い貨幣です。古いものなので、状態が悪く刻印の文字がはっきりしないものも少なくありません。その分、状態が良いものは高額で取引されるため、状態が良いものを買取に出すなら、専門の古銭買取業者に依頼する必要があるでしょう。